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私の生い立ちと就職、リストラから起業まで(古川隆奮闘記2)

私は、昭和37年9月生まれ。宮崎県延岡市出身。

昭和60年3月大分工業大学(現 日本文理大学)建築科卒業。
就職活動はしましたが、この年が就職難で、
大学の専攻は建築科なのですが、3流大学出では、
志望する建設会社や設計事務所へは決まらず、
仕方なく建築の仕事ではなく、営業へ志望を変えました。
それでも就職先は決まらなかった。

大学の先輩が、前の会社で経理課長をしており、
その方にお願いし、何とか採用してもらって、
大手マンションデベロッパーの営業マンとして入社。


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入社当時(昭和60年)年商600億、社員300名足らずだった会社が、
5年で年商5000億円社員数2000人の会社へ成長。
そして、バブルを経験する。

100部屋のワンルームの分譲マンションが、日経新聞全国版に広告を出すと、
その日の朝礼で、完売報告。青田売りで、即完売の毎日でした。
どんな物件でも、場所も見ず、新聞の広告での反響。
それも新聞紙面1ページではなく、1/3ページへ1回載せるだけ、即完売。


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私は朝6時には出社し、鳴りまくる電話を取り、お客様から申し込みをとり、
自分の売り上げにしていました。
給与は歩合制だったので覚えていませんが、
27歳(平成2年)の私が頂いたボーナスは、冬(12月)だけで200万円。
「不動産会社で働かない人はバカじゃないのかな?」と思うぐらい、
マンションが飛ぶように売れた。

会社は、大阪夏の祭り「天神まつり」のメインスポンサー。
大阪万博記念の時にできた遊園地、エキスポランドを2000人の社員で1日貸切。
乗り物は乗り放題。食事は、食べ放題、飲み放題。
夜は有名タレントを呼び、コンサート。社員全員コンサート会場で踊り騒いだ。
コンサートが終わると、たくさんの花火を打ち上げた。


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「なんて、私は素晴らしい会社に入ったんだ!」「私は運がいい!」
あの就職活動での、苦悩もなんのその。
一流企業の仲間入りをした会社の社員であり、課長になっていた私は、
この会社に一生ついていくことを心に決めた。

しかし、平成3年。
行政が土地の値上がりを阻止するために総量規制を始めた。
不動産バブルが崩壊し始めた。
あれだけ鰻登りで成長した会社だったが、かげりが見えてきた。

鮮明に覚えていますが、平成3年の初場所初日。
千代の富士が貴乃花に負けて、引退を宣言した記事が
日経新聞1面載ったその隣に、私が働いていた会社の記事が、
千代の富士の記事と同じぐらいの大きさで、270億○○銀行から支援と載った。

私は、ビックリ。
「会社は、急成長してきたのに支援?」「何か、おかしい!」
上司に記事の内容を聞くと、「安定している会社だから、支援を受ける事が
できるんだ。うちは大丈夫。銀行だって、危ない会社にお金はださないよ!」
と言い切った。

しかし、次の週も、その次の週も、毎週、入れ替り立ち替り、
違う銀行から金融支援の記事が掲載された。
いくら何でも、これだけ記事が載れば、社員は不安になる。
若い社員から、辞表がどんどん出てきて、辞めていった。

私は、その時、入社11年目。
課長にまでして頂いた会社には、感謝の気持ちもある。
また、未練もあり、辞めようなどとは、まったく考えていなかった。
その年から、ボーナスは無し。給与のみ。

とうとう、会社が本当におかしいと実感するときが来た。
私が担当していた北九州営業所の分譲マンションが竣工後2年を経過し、
建物代金の支払い期日が来た。
マンションは半分程しか売れておらず、代金が回収されていない。
会社は建物代金を支払うことが出来ず、物納することを決定した。
物納を受けた融資先は、私の会社と変わりマンションの売主となりました。

しかし、その売主から会社は、その売れ残りのマンション販売代理を受けた。
そこまでは良かったのですが、
昨日まで2200万円で販売していた3LDKのマンションを
ダンピングして1400万円で、会社が販売代理を受けてきました。


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なんと、800万円もの差があったのです。
私は、この現実を最初考えられませんでした。

野菜や果物なら36%の価格ダウンも考えられますが、何千万円もする高い買い物。
一生に一度の買い物をしていただいているのに、
突然「今日から800万円落として売ってくれ!」と言われても、
簡単に「では頑張って売ります!」とは言えません。

しかし、サラリーマン。
給料をもらうため、家族のためには、売るしかないのです。
「昨日までの私の信用は?」と思いながら、
今までと同じように、販売活動をしました。
心の中では、2200万円で買って頂いたお客様から、
「刺されるのではないか?」と心で思いながらやりました。

北九州所長をやっていた私は、その物件の責任者であり、
社員にはそう言う状況下でも、頑張って売るように指導しました。
信用を捨て、尚且つ恨まれる仕事をしている自分が情けなく思える日々でした。
このとき程、不動産会社に勤めていて嫌だったことは、ありませんでした。
不動産会社の社員としてバブルの良い時を経験し、少し良い生活を経験した私でしたが、
バブル崩壊とともに、苦い、そして心の痛む経験を強いられました。

しかし、苦い経験はそれだけではなかったのです。
どんどん会社がおかしくなり、とうとうリストラが始まりました。
リストラする人数が本社より通達され、リストラの選出を幹部で決めて
本人に宣告されるのです。
確かには覚えてはいませんが、1回に4~5人へ通達していました。
言われる前に、辞めていく社員も増え、
会社にはなんとも言えない、嫌な雰囲気が漂っていました。

そして、平成7年6月、とうとう私の番が来ました。
12月末で辞めてほしいとの事でした。
いつかは、言われると思っていましたが、
会社が好きで、会社のために、頑張ってきたつもりでしたが、
会社から辞めてほしいと言われたとき、
大きな杭が心に刺さって取れないと言うほどの、ショックでした。


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しかし、取締役の配慮で、長崎のマンション会社へ、
給料も変わらない条件で、再就職の話をして頂き、そちらで働く様に勧められました。
私は早速、そのマンション会社へ視察に行きました。
悪くない話で、ほとんど同じ仕事。
やれるとは思ったのですが、北九州で800万円ものダンピング、
信用を捨て、尚且つ恨まれる仕事をしている自分を惨めに感じたことを思い出し、
同じ事をやらされる可能性はあると考え、お断りすることにしました。

私のとっては、これも大きな決断でした。
田舎延岡へ帰ることも考え、父親へ相談しました。
小さな電気工事屋をしている父は、今不動産をやっており、
まったくと言っていいほど知識の無い私に満足できる給料は払えない事と、
弟が半年前に仕事を辞めて、帰ってきており、福岡で頑張る様に、進められました。

不動産会社へ就職するつもりは無い。田舎へは帰れない。
私は、自分で不動産会社を始めるしか方法がありませんでした。


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